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2009年11月02日

What Is Life?/人生ってなんや?

書きたい事が山程あるのにいざ日記に書こうとすると中々書きたい事が上手く書けない。
 昔からだけど根暗な所があって、この世に生まれて来たくなかったと、しょっちゅう思う事がある。

 例えば自分は死ぬ程音楽が好きで、好きな以上やっぱり自分で演奏出来る様になりたいとか、作曲出来る様になりたいとか思うけど特にショパンの音楽みたいに、凄く良い音楽を聴けば聴く程、練習をすればする程、凄く才能のある人に出会えば出会う程、絶望的になる(感動もするけれど)。あんな風に音楽の中で自由になれない自分が痛い程分かってしまう。綺麗事は抜きで何だカンだと言っても人生は殆ど生まれ持った才能で決まってしまうと言うか、才能こそが全ての問題を解決してしまうと思う。僕は何か言葉では表現出来ないような閃き、アイデアや感覚的な物を目の当たりにした時に幸せを感じるけど、それは努力ではなく何らかの才能がこの世にもたらす現象だと思うから、ある意味天才のする所業とは、自然現象だ。だが自分にはその様な自然現象を起こす力が只無いと言う話であるが、これが有るか無いかが雲泥の差を生むのである。それを考えると自分が生きていても自分のやりたい事で思い通りに行かないのに何でこんな風に自分を産んだのか?音楽だけで良いから天才に産まなかったのか?と親を恨みたくなる時も有る。僕にとって天才に生まれなかった時点でこの世界自体に生きていく価値を見出せない。この世界自体が生きて行くに値するだけの価値が無い(未だ必死に足掻いてはいるが)。

 こんな事を色んな人に言うと「昔は自分もそんな事考えていたけど、自分は自分だから仕方が無いと開き直った」とか言う人はいるけど、そんな物は単なる思考停止であって、人生を諦めてしまっているようにしか見えないし、自分と他人を一緒にする事が愚かである事に気が付いてもいない。こう言う人に限って自分のやりたい事が中途半端で終わってしまったり、何の努力もした事が無い、もしくは好きな事が何も無い人間なんじゃないかと言う気がする。大半の人は確かに自分の好きな事とは全く違った仕事に就いて生きていると思うがそれは「自分に対する妥協」である。

 人間の中身に備わっている才能だけではなくて例えば、人間の外見の面でも経済学にビューティーバリューと言う言葉をチラッと聞いた事があるがこれは全く同じ能力の人間でも外見が綺麗に生まれた方が一生の収入が違うと言うものだ。外見(人によっては内面的な物が外面に出ると言う人もいるがここでは純粋に顔、身体の形状の事を指す)と言うのも一種の才能だ。どう言う形で生まれて来るかで境遇が180度変ってしまうのだから。

 良く考えたら人間がこの世に生まれて来る時、自分で選択出来るものは何も無い。生まれる場所、時代、家柄、顔、才能、全て何も選ぶ権利も無く只、親から産み落されるだけの残酷なシステムの中で一度生まれたら人間が不幸な生き物である事を成るべく考えないか忘れて生きて行くしかない。

 フランスの数学者パスカルはこう言っている・・・「多数の人々が鎖につながれ、死刑を宣告されているさまを想像しよう。幾人かが日ごとに眼前で絞め殺され、残った者は、自分たちも同じ運命をたどることを悟り、悲しみと絶望の中で互いに顔を見合わせながら、自分の番がくるのを待っている。これが人間の状態なのである」 つまり人間は全員、只の死刑囚だと言う事だ。人は産まれてきた瞬間から処刑台の列に並び始め、先に両親や友達が首を吊られて死んで行くのを目の当たりにしながら自分の番が来るのを只待ってるだけ。哀れだな。

 はあ・・・何故こんな何も、何一つ思い通にならない醜い痛いだけの現実の世界に生まれて来たんだろう?仮に自分を愛してくれる人がいたとしても何時かは死んでお別れだ。もう自分を本当に救ってくれる物は何も無いような気がする。

 現実とは残酷で退屈極まりなく、そして醜い。しかしこれは考えてみれば当たり前の事で人間が勝手に地球に誕生しただけだからこの世界自体、もしくは世界の仕組み自体が人間の為に出来ている訳が無い。何でこんなにも最低なんだろう?

 現実には存在しない、非現実の中の世界にしかない「本当の美」、芸術だけが唯一の生きる糧のように思える、自分をこの世に何とか繋ぎとめてくれている。
posted by あきらん at 02:50| Comment(0) | エッセー・論文/Essays | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

What Is Music?/音楽って何?

chopin.gif
Frederic Chopin

時代はショパンよりもかなり早い時代に生きたバッハとモーツァルト…
ショパンはどんな音楽家より、バッハとモーツァルトを尊敬していた。
ショパンがそんなバッハについて語った手記・ ・ ・

『バッハは決して古くならない。バッハの作品はあらゆる物が正しい位置を占めて、たった一行の過剰な線も無い。バッハは私に天文学者の事を思わせる。ある人はバッハの中に複雑な音型以外の何物も見る事が出来ないが、バッハを感じ、これを理解出来る人々に、バッハは、彼の巨大な望遠鏡へ連れて行き、彼の傑作である星を嘆賞させる。それ故、バッハから背を背けた時代は、その軽薄さと愚かさと、そして又、堕落した趣味を証明するものである…』
フレデリック・フランソワ・ショパン

音楽と言う夜空に音が美しく光り輝く。バッハに限らず良い音楽はそう言う完全性を秘めているのか。
又、ショパンは亡くなる直前に友人に宛てた手紙に作曲活動の辛さを次の様に語っている…
『モーツァルト。あの短い生涯が、何と多くの仕事と創造的天分を持っていたか考えてご覧なさい。私が最後に聴きたい音楽は、自分のではなく、もっと純粋な物を、モーツァルトの物を。』
フレデリック・フランソワ・ショパン

ショパンは晩年、自分の葬儀にモーツァルトのレクイエムを演奏してもらいたいと言っていたと言う。
彼が生涯最後に作曲したマズルカの楽譜の最後には、こう記されている…

『曲の最初に戻って、これを永遠に繰り返す

死の間際、ピアノの詩人ショパンは何を見ていたのか…
こういう言葉が自分の音楽活動の大きな励みになるんだ。
どんなに美しい旋律、和音進行や楽曲構成を目の当たりにしても、何かその先にあるものを追い求めたくなる。
辿り着く先が見えないのは『音楽とは何か』と言う、答えの無い問い掛けが目の前に立ちはだかっているからだと思う。

最後にドビュッシーが言った言葉…

『音楽とは嘘の中で最も美しい嘘』
posted by あきらん at 02:58| 熊本 ☁| Comment(2) | エッセー・論文/Essays | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

What Is Beauty And Love?/美と愛とは?

自分がモテるかモテないかを気にする人は多いが、逆に自分がどれだけ本気で人を大切にしたり出来る人間かを気にする人は少ないのではないだろうか。

実践が難しい事の方が、価値がある。だから難しい。人を愛したり大切にする事は難しい。だから自分が人から好かれるように努力するより、こちらから人を大切にする事の方が価値があるのは事実だろう。

価値のある物はいつでも簡単に手に入らない。

何かと自分の欠点に対しては盲目なのが又、人の性。周りに対しては幾らでも不満を抱き、欠点をあげつらうのに、自分の欠点は正当化したり認めなかったり…、やっぱり認めるのは難しいから、認める事は価値がある事だ。

自分は生まれつき表現者だ。

無感性な人間を見ていると「物」に見える。
「これは人間か?ただの肉の塊?」と。
芸術(音楽や詩や絵画)と言う媒体で自分が世界と繋がっている感覚。
「夢の記憶」と「現実の記憶」の境界線が曖昧で何が本質的に「存在している」と断定出来るのか、それどころか断定する方法自体そもそも「存在」するのか?

映画「ウェイキング・ライフ」の一場面でこんな部分がある…
“フランス実存主義の哲学は「絶望の哲学」と言われている。人生は不毛であり情熱的に生きる事に対して否定的だと。しかし本当にそうだろうか?サルトルは言っている「私は絶望を感じた事はない」"と。

原始インド仏教には「空(くう)の概念」がある。これを理解するのは生半可な難しさではないと言う。

キリスト教においては「神は存在する」か「神は存在しない」のどちらかしか、有り得ないが(この世界観が形式論理学を発展させ数学や科学の進歩を導き出し現在の文明社会、特に資本主義を築き上げた)、空(くう)の理論は「仏は存在すると同時に存在しない」尚且つ「存在するでもないと同時に存在しないでもない」となる超論理が根底にある(色即是空・しきそくぜくう、空即是色・くうそくぜしき)。この自由に満ちた世界へのアプローチが、神の命令のみに生きるキリスト教と対極の「自発的な悟り」と繋がっているのだ。「空(くう)」は度々、「無」と混同されるが、空と無は全く違う事も理解しなければならない。無は有に対立する概念だが、空は有にもなりえるし無にもなりえる。又、空は有でもなければ、無でもないと言える。(それにしてもキリスト教的価値観が生み出した資本主義の何と無味乾燥なシステムだろう…)

古代の人達には恐らく「幸福」とか「不幸」の概念すら無かったのでは?と思う。価値観が多様化し過ぎて迷走した現代人だから「幸福」を定義出来なくなって「幸福論」のように、幸福が何なのかを考えなければならなくなるんだ。

日本人(の大衆)は宗教を理解していないので難しい所だが、人を愛する事「人間として最も建設的な事」がもし、この空(くう)論理学に当てはまらない時、それはまだその人の考えている「愛」と言う概念は、ただ自分のエゴの世界の中で相手を捉えているに過ぎず、完全にまやかしの幻想でしかないのだ。

人間は常に自らの心と感性に自問自答し掘り下げ、その深淵(しんぶち)に触れ、自らを見つめなければ本質、真実には辿り着けないのだ。
ふぅ…

「人を愛する」と言う意味で、それを完璧に実践した代表的人物は、チェ・ゲバラでしょう。哲学者サルトルは彼を「20世紀で最も完璧な人間」と言い、ジョン・レノンは「世界一かっこいい男」と言いました。

キューバ革命を命懸けで成功させた後も政府の重役になっても安いアパートに住み続け、まだ知名度が日本では低かった時も広島と長崎を訪れ、「残虐な物を見てしまった。日本人は何故怒らないのか?」と言い、「私は広島と長崎の人々を愛したい」と言ったそうです。帰国後、キューバの歴史の教科書に原爆投下の事実をデカデカと掲載させ、現在ではキューバの子供達は日本人の子供でも知らない子がいるのにみんな原爆が落とされた日にちを知っているみたいです。その後もゲバラは「私のささやかな努力を求める大衆がいる」と言って更に革命を求め、ボリビアへ旅立ったのですが残念ながら政府軍に捕まり射殺されました。彼の最後の言葉は「さあ、撃て。俺はただの男に過ぎない…」美しい人間とはこの事かな。
posted by あきらん at 03:02| 熊本 ☁| Comment(0) | エッセー・論文/Essays | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Anger/怒り

一度良かったら石井こうき議員のドキュメンタリーを一人でも多くの人にyoutubeで見てみて欲しいと思う。

http://www.youtube.com/watch?v=RIWZX_Sd4Fc&feature=related

政治家の裏を調査しまくって国会に爆弾を投げる男と言われていましたが七年前に殺された議員です。

ある重大な事実の証拠になる資料を持って国会へ向かう為に家を出たら自宅前で刃物を水平に胸を刺され殺害されました。(水平に刺すと肋骨の隙間に刃が入る事を熟知したプロの犯行)

その資料も現場の議員のカバンから消え見つかっていません。犯人は直ぐに出頭したため、動機捜査はされましたが結局、犯人の「個人的な金銭のもつれ」と言う本当かどうか疑わしい証言に終始して裁判は終了。

議員の例の「資料」については全く裁判でも触れられませんでした。それが今年になって獄中て犯人が「あれは頼まれてやった」と告白しニュースでも放送されました。

なぜか国会予算の四倍もある特別会計。
道路公団から民間に流れまくって闇に消えていく膨大な金。(300兆円とも言われる。大蔵大臣も何に使われているか把握していなかった。)

陰謀説じゃないけど日本人は国民がみんな詐欺にあっています。

旧ソ連のように外からは大国にみえても中身は崩壊している。(いわゆる「鉄のカーテン」で情報が封鎖されていた)

石井こうき議員は若い頃、旧ソ連に留学し、一つの国家が崩壊していく様を見ていたのでしょう。勿論この時代、旧ソ連に留学する日本人なんて殆どいませんから。

日本の経済システムは

「官僚制社会主義」です。

資本主義に見えて実は国内に3000以上は天下り企業がある事を石井こうき議員は突き止めていたと言います。必要のないダムや道路などの公共事業(例えば自分の部屋にテレビを五台位買うようなもの)、日本各地を飛び回り独自に調査も行っていたようです。

官僚と政治家の癒着を早く潰す為に私達は売国奴政治家を調べて国会から追放しなければなりません。

今は一部の特権階級が好きなように経済、金を動かしている。

金がきれいに流れたら医療費も安くなる、働きたくても働けない人が減る、もっとみんなが人生を謳歌する時間が出来る…人間らしく生きれる訳です、てかこれって人間の当然の権利です(現実は金ですからね、なにせ不透明な金は300兆円。日本には金自体はこれだけあるのに今の自分の生活は楽でしょうか?他の先進国見て見てみて下さい(アメリカ以外の)、全然みんな裕福だから。税金の半分以上が日本は闇に消えていく…)

最近はネットが普及してるから真実にも気が付き初めている人が増えてきた。良かったらググッて色々調べてみても良いかも(「国賊落選」で検索)

直感と感受性が強力な人間は調べなくても日本が如何に絶望的かを感じとれてしまう(笑)何も考えなくても。ただ、調べたらこんなに酷いとは思わなかったです…

ゲバラみたいに派手に「革命を!」って言ったら今の時代、直ぐに抹殺されて終わってしまう。

幕末から明治にかけての日本の素晴らしい政治はどこへ
大久保利通は死ぬ時殆ど個人的財産を持ってなかったみたいですし(悪い事してない証拠)、すげーなあ。

俺はいつも心の中で「俺の声を聞け!」と叫んでいる。
posted by あきらん at 03:05| 熊本 ☁| Comment(0) | エッセー・論文/Essays | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

The System Of Evil "Jyuken"/悪魔の制度とその分析の必要性

小室直樹先生、色摩力夫先生の共著書「人には何故教育が必要なのか」(総合法令出版株式会社)を元に書いています。 すみません、殆ど引用ばかりですが・・・

日本の教育にある根源的な問題、それは正に

"受験制度" です。

ここからは殆ど本の内容です→

六世紀、中国が随の時代に完成した「科挙」と言う受験制度があります。これは官僚になるためのペーパーテスト。

高級官僚の特権と言うと、中国ほど甚だしい所はない。権力を独占し、名誉は最高。富を得るチャンスもずば抜けて大きかった。科挙を「登龍門」と呼ぶが科挙に合格した人とそうでない人とでは、龍と鯉ほども違った。その龍になるチャンスが平等に庶民にまで与えられたものだから庶民から、なんと皇帝まで張り切った。

明の時代、科挙は社会の隅々にまで行き渡り、受験の参考書まで出来ていた。

所が社会のみんながみんな頑張り過ぎるとどうなるか…

子供は物心ついた時から科挙の受験勉強以外の事は何もしなくなる、いや、させられなくなる。 
ただ脇目もふらず、受験勉強だけの生活。科挙合格だけが人生の目的になる。

こんな生活を何十年も続けたらどうなるか…

条件反射のネズミのような人間になる。オウム真理教は、これを「自動販売機のような人間」と言いました。そんなネズミ人間が高級官僚になり国の舵を取る。

一方、ネズミになり切れず人間らしさを残している人々は社会の底辺で発言権を失ったまま放っておかれる。

今の日本と何て似ているだろう?

物心ついてから何十年も受験勉強しかしたことがないネズミ人間は受験以外の事には何の関心もない。こういう人は政治能力のない、決断の出来ない無能力人間になる。

例えば「土木堡の変」。明の英宗皇帝が率いる大軍が北京から北わずか百キロの土木堡でオイラート軍によって全滅し、英宗は北に連れ去られた。これは一大事。北京の政府は大騒ぎだったが、この時、科挙出身の高級官僚はうろたえるばかりで何も出来なかった。

こんな非常の場合、マニュアルはない。参考書にもない。途方に暮れる科挙秀才のそばでテキパキと処理して大事件の収集に動いたのは、宦官だった…

これは「受験地獄がどんな人間をつくるか」を知る為の例としては絶好かな。

科挙の受験科目の中心は儒学の古典。しかも明以降は皇帝に忠義を尽くす事を教える朱子学が中心だった。科挙に受かった秀才達はそんな事知り尽くしているはずなのに…

頭でだけは。

だから何もしなかった。

時代が明末になると、毅宗崇禎帝の時、反乱軍の李自成の軍が北京城を囲んだ事があった。城門の鍵が中から開けられて、李自成の反乱軍は一気に侵入。刃向かう官軍はいなかった。この時、城内の高級官僚は何をしたか?

朱子学を学んで育った秀才官僚のした事は・・・?

一斉に「李自成万歳」を叫び、彼に土下座…

毅宗崇禎帝に殉死したのは宦官だった。科挙出身の高級官僚は一人もいなかった。

この事から、発見出来るのは、受験勉強で学んだ事は、本当は上の空で、真に理解していなければ、身にもついていないと言う事。

それはそうでしょう、受験勉強ほど詰まらないものはないのだから。それを内側と外側から強制される。しかも受験参考書と答案の書き方は既に決まっている。これほど個性を埋没させる勉強はない。(日本の教育では「同じように扱う事が平等」となる。「個性」の意味を理解していない。)

そうなると内容はどうでもよくなる…今の日本から受験がなくならないのは何故か?答え→社会的要請だからです。

官僚は増殖すると言っている政治学者もいますから。←ここまではほぼ本の内容です。

東大法学部に受験で入る事が日本国内ではトップになる事と言うシステムを自分達で作っている。(そんな東大も世界の大学ランクではベスト100にも入らない)

合掌・・・
posted by あきらん at 03:06| 熊本 ☁| Comment(0) | エッセー・論文/Essays | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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